旗手 Standard Bearer

旗手はかっては軍内で重要な職であった。それも国王がまだ戦場に出座していた頃にはより一層重要だった。
ヘンリー・ド・エセックス(エドワード証誓王の寵臣でレイラン城主)が旗手を務めていた時にイングランドの軍旗を投げ捨ててしまった際には強く非難され、国王から死を求められるほどだった(この時は死ななかったが、宮廷内での権勢は衰えた)

薔薇戦争の頃にはそれぞれの側で自軍の旗手がおり、ボズワースの戦いではリッチモンド伯ヘンリー・チューダー(後のヘンリー七世)の旗手をウィリアム・ブランドンが務めた。

市民革命期、チャールズ二世は市民革命終結のずっと後の1661年にやっと王位を宣言したため彼の旗手は”イングランドの旗手”とは呼ばれなかった。 この職は次第に名誉職の色彩が強くなり、現代では国王(女王)の守護闘士の地位と結合するようになった。

旗手にまつわる逸話ではウィリアム征服王が1066年ヘイスティングスの戦いに臨むにあたって、代々ノルマンディー公家の旗手の役目を世襲していたラウール二世・ド・トニーが公爵の御前で戦闘に参加することが出来る様に旗手の役割を返上しウォルター・ギファードに譲った話が伝わっている。(旗手の役目には様々特権があったが、その役目上戦闘に参加することはできない)

ウォルター・ギファードも自身の部隊を指揮する必要があったため旗手を辞退し、結局タースティン・フィッツロルフが旗手の役目を与えられたとされる(ウェイス「ド・ローの物語」)

バイユー・タペストリーで旗手として描かれているのはボローニュ伯ユスタシュと見られる人物であり、ヘイスティングスでの旗手には争点があるかもしれない。

旗手の特権についてウェイスの「ド・ローの物語」の記述を参考とするならば、旗手の役目にある間近親者も含めて全ての奉仕の義務を免除される、というものらしい。

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