ル・マン司教
アヴェスガルド・ド・ベレーム

Avesgaud de Belleme (? - 1036) , Bishop of Le Mans

アヴェスガルドは、有力貴族ベレーム家の一員であり、997年から1036年に死去するまでル・マン司教の地位にあった。

彼の司教位は、メーヌ伯爵エルベール一世との闘争により衰退した。

アヴェスガルド・ド・ベレームはイヴ・ド・ベレームとゴッドヒルデ夫妻の間の子であった。 997年、彼は母方の伯父ル・マン司教サインフロイの地位を継承した。

ベレーム家系図

彼の司教座はル・マンのサン-ジュリアン(ル・マン大聖堂)に置かれた。

サインフロイとアヴェスガルドの両名は、イル・ド・フランスとノルマンディーの間に広がる、ペルシュ、セー、アランソンといった境界地帯を支配する有力貴族ベレーム家に属していた。

ベレーム家は、ノルマンディー公にもフランス王家にも忠実とは限らなかった。

だが、サインフロイは、ル・マン司教の指名を受けるうえでアンジュー伯爵ジョフロワ一世に借りを作っていたため、アンジュー伯側に味方していた。

恐らく同じ理由により、アヴェスガルドはアンジュー伯爵フルクと協力関係にあった。

1017年頃にエルベール一世がメーヌ伯爵となるまで、アヴェスガルドの、司教としての最初の数年間は静穏であった。

その時より、両者は苦く果て無き闘争に囚われた。

メーヌ周辺地図
薄赤の領域:ベレーム家勢力範囲

アヴェスガルドは自身の手勢に加え、教会領から封領を与えることにより、エルブラヌスという名の騎士を援軍として召募し、”寝ずの番犬”エルベール伯爵からのあらゆる圧力に抵抗した。

だが、エルブラヌスはエルベール伯から司教を防衛することに失敗した。

メーヌのエルベール一世伯との長い戦いの間、デュノーのアヴェスガルドの城は伯爵の攻撃を受け破壊され、アヴェスガルドはベレームの兄ウィリアムの城の保護下への亡命することとなった。(1020年頃か?)

一時身の安全を確保すると、司教はエルベールに破門を宣告し、対立を継続した。

間もなく破門宣告は解除され、和平が回復したが、エルベールは再び司教の領地を襲撃し始めた。

司教がラ・フェルテ・ベルナールに城を建設していることをエルベールが知るや、伯爵はそこにアヴェスガルドを攻め、再び司教を亡命させたが、この時には城は修復された。

最後にアヴェスガルドが司教区を追われた際、彼は聖地への巡礼に旅立った。

彼は1036年頃、ル・マンへの帰途の途上、ヴェルダンで死去したと伝えられた。

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