ウィンチェスター侯爵
Marquess of Winchester

現侯爵は十八代ナイジェル・ジョージ・ポーレット、南アフリカ在住。従属称号としてウィルトシャー伯爵、セントジョン男爵を有する。

1551年政治家ウィリアム・ポーレットにより創設。ポーレットはこれ以前に1539年にセントジョン男爵、1550年にウィルトシャー伯爵を創設していた。

初代侯爵は当時の著名な政治家の一人で、ヘンリー八世とその子等に仕えた重臣で1550年から1572年まで大蔵卿の地位に就いていた。

二代侯爵となる彼の息子は父親の生前からセントジョン男爵の称号で後継者召喚状(writ of acceleration:貴族院の人員確保と平均年齢の引き下げを目的として貴族の法定推定相続人たる長男子を父の従属称号により貴族院議員として召集する制度・手続き)により貴族院議員となった。 三代侯爵となる孫も同様に1572年セントジョン卿として貴族院に召集された。

曾孫となる五代侯爵はセントアイヴス選出の庶民院議員。内戦中、五代侯爵はチャールズ一世の強力な支持者であり、”王家の侯爵”として知られる様になった。 一族の本拠地ベイシング・ハウスは内戦中の議会派による放火で焼け落ちた。

この時代、侯爵の法定推定相続人の儀礼称号はセントジョン男爵であった。ウィルトシャー伯爵は使われていなかった様に思われる。おそらく侯爵位を創設してもそれまでの(男爵位を儀礼称号としていた)伝統・習慣を維持しただけなのだろう。

六代侯爵はウィリアム三世とメアリ二世を支持し、その貢献により名誉革命後にボルトン公爵位を叙爵された。1675年のちに二代公爵となる相続人が初めて儀礼称号としてウィルトシャー伯爵を使用した。二代公爵も政治家であり、特に侍従長として、またアイルランド統監として仕えた。

のちの三代公爵はウィッグ党議員でいくつかの州の統監を務め、1717年に父の従属爵位セントジョン男爵の称号で後継者召喚状により貴族院議員となった。しかしこの時誤ってベイシングのポーレット卿として召喚されたため、うっかりで新しい爵位が創設されてしまった。だが、三代公爵が継承者無く死去したため、その他の爵位は四代公爵となる弟に継承されたがこのベイシングのポーレット男爵位は廃絶してしまった。

四代公爵は海軍卿を務め、またハンプシャーとグラモーガンシャーの統監を務めた。五代公爵は貴族院議員でハンプシャーの統監を務め、六代公爵となるその弟は白色艦隊提督を務めた。六代公爵には子がなく、1794年その死によりボルトン公爵位は廃絶した。

領地屋敷の大部分は姪で五代公爵の非嫡出子ジェーン・マリー・ブラウン-ポーレットが相続した。彼女の夫トーマス・オードは姓にポーレットを加え、1797年位ボルトン男爵位を創設した。

ボルトン公爵位は廃絶したがセントジョン男爵位、ウィルトシャー伯爵位、ウィンチェスター侯爵位は遠縁の相続人ジョージ・ポーレット(初代侯爵の子孫ではあるが初代公爵=六代公爵とは別系統のため公爵位の継承権がない)が継承し十二代ウィンチェスター侯爵となった。

十二代・十三代侯爵はいずれも議員を務め、十三代侯爵はハンプシャーの統監も務めた。1839年(サラ・サルスベリー旧姓バロウズの資産を相続するにあたって)姓にバロウズを加えた(ハズだが何故かその次の世代以降には引き継がれていない)

十四代侯爵もハンプシャーの統監を務め、十五代侯爵はコールドストリーム連隊に属して1899年第二次ボーア戦争中のメイジャースフォンテエィンの戦いで作戦中に戦死。

十六代侯爵はハンプシャーの統監およびハンプシャーカウンティ議会の議長をを務めた。1962年に十六代侯爵が99歳で死去すると十四代侯爵の血統が断絶し、遠縁の相続人(十三代侯爵の玄孫)が十七代侯爵となった。1968年に十七代侯爵が死去しこの血統も断絶する。爵位は甥のナイジェル・ジョージ・ポーレット(現侯爵)が十八代侯爵として継承。

ボルトン公爵の姓の綴りは"Paulet"よりも"Powlett"の方が一般的である。

ウィンチェスター侯爵は現存する最古の英国侯爵であり、その称号を保有するものは首席イングランド侯爵であるとされる。またウィンチェスター侯爵はイングランド貴族の中でより高位の爵位を持たない唯一の侯爵である(つまり他のイングランド侯爵位はすべて公爵の従属称号である、ということ) このため、儀礼上の理屈からは最上席の侯爵であるはずのウィンチェスター侯爵が、現実には(侯爵の中の)末席になるという事態となっている。

ウィルトシャー伯爵の称号は侯爵の長子で相続人となる男子が儀礼称号として用いる。ウィルトシャー伯爵の子で相続人となる子はセントジョン卿の称号を用いる。

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