リンジー伯爵
Earl of Lindsay

リンジー伯爵位はイングランド貴族の称号。1626年に十四代ウィロビー・ド・アーズビー男爵により創設された。

初代伯爵ロバートは1635年から1636年にかけてイングランド第一海軍卿を務め、母の実家オックスフォード伯爵家(ド・ヴィアー家)が断絶した際に貴族院の最低によりイングランド大侍従卿を世襲する権利を得た。

リンジー卿は市民革命において王党派として戦った。1642/10/23エッジヒルの戦いにおいて初代伯爵が戦死し、爵位は子息により継承された。

二代伯爵モンタギューもエッジヒルの戦いに参加しており、瀕死の父親を看護するため議会派に降伏した。 リンジー卿はのちに、第一と第二のニューベリーの戦い、およびネイズビーの戦いにも参加した。

二度目の結婚で生まれた彼の子、ジェームズは1682年にアビンドン伯爵位を創設。

マーサ・コケーンとの最初の結婚で生まれた子息ロバートが三代伯爵として爵位を継承した。

三代伯爵はボストン選出の庶民院議員となり、リンカシャー統監を務めた。

三代伯爵の子で四代伯爵となったロバートは1690年に接近令(貴族院の高齢化対策として貴族の法定推定相続人に対し、従属称号により貴族院議員として活動させた)により父の従属爵位ウィロビー・ド・アーズビー男爵として貴族院に召喚された。

彼はのちにランカスター公領大臣、リンカシャー統監を務め、ジョージ一世の到着までの摂政団(Lords Justice:裁判官を意味するが、君主不在時の統治代行者を務めるため意訳した)の一人であった。

四代伯爵は、1706年にリンジー侯爵位、さらに1715年にはアンカスター・ケスティーブン公爵位を創設した。

彼の子二代公爵(二代侯爵、五代伯爵)ペレグリンは1715年、やはり接近令によりウィロビー・ド・アーズビー男爵として貴族院に召喚された。 彼ものちにリンカシャー統監を務める。

三代公爵(三代侯爵、六代伯爵)となったペレグリンは二代公爵の子である。 彼は陸軍の将軍となり、1766年から1778年にかけて主馬頭を務め、またリンカシャー統監も務めた。

その子で四代公爵(四代侯爵、七代伯爵)ロバートはリンカシャー統監であったが、未婚のまま1779年に早世した。 彼の死にあたり、ウィロビー・ド・アーズビー男爵位は彼の姉妹であるプリシラ嬢とチャムリー侯爵夫人ジョージアナの間で保留状態となった。 また、大侍従卿の世襲職については、姉妹それぞれ家系が国王の代替わりに合わせて交互に務めることとなった。 (男爵位の保留状態については1780年にプリシラの同意により一旦終了している)

公爵位・侯爵位・伯爵位については、二代公爵の子で三代公爵の弟であるブラウンロウが五代公爵(五代侯爵、八代伯爵)として継承した。 五代公爵はリンカーン選出議員、およびリンカシャー統監を務めた。彼には子が無く、1809年五代公爵の死により公爵位と侯爵位は廃絶した。

リンジー伯爵位については、三従兄弟(みいとこ)アルベマールが九代伯爵として継承した。九代伯爵は二代伯爵の第五子チャールズ卿の曾孫にあたる。九代伯爵は陸軍の将軍で、スタンフォード選出の議員でもあった。

1938年彼の孫である十二代伯爵モンタギュー・ペレグリン・アルベマールの死により、二代伯爵第五子チャールズ卿の血統は途絶えた。

十三代伯爵は遠い親戚の八代アビンドン伯爵(三代伯爵の異母弟の家系)モンタギュー・ヘンリー・エドモンド・タウンリー-バーティが継承した。 しかしながら、1951年までアビンドン卿がリンジー伯爵位の継承者であることは認識されていなかった。

現リンジー伯爵(十四代、兼九代アビンドン伯爵)は十三代伯爵の従兄弟リチャード・ヘンリー・ルパート・バーティである。

一族の本拠地は、イースト・エアシャーのモシュリン近郊に位置するギルミンズクロフトハウスである。

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