中世馬事情(二) 育成

ローマ帝国の衰退期から中世初期において、古代期に開発されていた高品質の種畜の多くは、無制御な繁殖により失われ、数世紀をかけて再構築されなければならなかった。

これは、西洋、英国やスカンジナビアなどでは、馬は移動と追撃のみに使用され、歩兵を主体とした戦術構想を採用していたことにも起因するかもしれない。

しかしここには例外もあり、7世紀メロヴィング朝時代には、まだ少なくとも一か所、ローマ風の馬育成牧場が稼働していた。

8世紀から15世紀にかけて、イベリア半島がイスラムに支配されたことに伴う文化的影響、および歴史的に有名な馬産地としての評判にも起因したものか、スペインには多様な品質の馬が残されていた。

中世の軍馬の起源は、現代のフリージアン種とアンダルシア種の前身となった、スペインのジェネット種(小型馬)を経由した、バルブ種やアラブ種であると考えられているものの、確かではない。

イランやアナトリアからの(トルコ種に似た)ニサイア種と呼ばれる東方血統や、十字軍の帰還で持ち込まれた、その他東方種が起源の可能性もありうる。

”スペイン”(という種の、あるいはスペイン人の生産する)馬は最も高価であった。実際、ドイツ語ではspanjolという単語が、高品質な軍馬を示す用語となった。

だが、ドイツの文献には、スカンジナビアの名馬への言及も存在する。

また、フランスでも良質な軍馬が生産されていた。一部の研究者は、それをフランスの強固な封建社会によるものとしている。

だがこちらについては、ウマイヤ朝侵攻軍に対してカール・マルテルが勝利した732年のトゥールの戦いにおいて、(戦利品として)捕獲されたスペインおよび東方血統の馬と、メロヴィング朝により保存されていたローマ式馬育成法による成果との説明も、同様に主張可能である。

この戦いののち、(飼料生産のための)土地の押収と、牛から馬へ貢納が変化した結果として、カロリング朝では重装騎兵が発展し始めた。

馬産の軍事的重要性が理解されたため、計画的飼育の拡大が企図された。

多くの革新は、十字軍と、スペインへのムスリム侵入を通じ、イスラム文化の影響によるものであった。

アラブ人たちは口伝により、バルブ種とアラビア馬の多くの血統を維持していた。

ヨーロッパの歴史上、最初に書かれた血統書は、カルトゥジオ修道会士により飼育・維持された、スペインのジェネット種であった。

修道士は、読み書きができたため、この様な正確な記録を残すことが可能であり、特にスペインでは、貴族の特定層により、馬産の役目を与えられていた。

イングランドにおける軍馬の、共通の祖先は荒れ地の野生ポニーである。それらは毎年、シトー会派を含む馬生産者により、行軍用や軽騎兵用として駆り集められていた。

その様な品種のうちの一つが、フリージアン種の祖先と見られるフェル種である。

17世紀中、デストライア種の血統が記録から消滅した様に見えが、その血統に何が起こったのかを追跡することは極めて困難である。

一部の歴史家は、ペルシュロン種、ベルジャン種、サフォーク・パンチ種などの、現代の輓馬品種の多くはデストライア種の子孫であると考えており、そのため、これらの品種は中世の”巨大馬”と関係があると主張している。

しかしながら、他方で歴史上の記録が、中世の軍馬と、現代の輓馬とは、全く異なる'種類'であることを示唆しており、この主張に批判的な歴史家も存在する。

上記主張では、軍馬、とりわけデストライア種は、気性が荒いことで有名だったため、温和な役務馬と再度交配した可能性があることを示唆している。

(三)へ続く
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