中世馬事情(十四) 馬具の技術 鐙と拍車

8世紀以降、戦闘時における鞍上の戦士の安定と安全を目的とした鐙の使用が増加した。

ランス(騎兵槍)は鐙なしでも効果的用いることができたけれども、上記は集団騎馬戦術の利用拡大の誘因となったかもしれない。

特に、鐙の軍事的可能性がカール・マーテルに認められ、新戦法で戦う彼の臣下たちに封建制が確立された。

鐙大論争として知られる理論は、戦争における鐙の使用による利点とは、封建制それ自体が生み出されたことである、と主張する。

しかしながら他の学者からは、鐙により突撃戦における鐙の効用はほとんど無く、主に戦闘中に騎手が鞍の左右に大きく体を傾けやすく、落馬の危険性を減少させ得ることに有用なことを示唆する異議も主張されている。

それゆえに、その立場からは、鐙が中世の軍隊が歩兵から騎兵へ変換した理由でも、封建制の発生の理由でもない、と主張されている。

馬を制御するためには様々な面繋(おもがい)があるが、主たるものは、様々な意匠の馬銜(はみ)の付いた手綱である。

中世に使用された馬銜の多くは、今日でも一般的に使用されている小勒銜bradoonや水勒銜snaffle bit、大勒銜curb bitに類似したものであった。

ただし、それらはしばしば大仰に飾り立てられていた。銜環(はみかんbit ring)や銜枝(はみえだshank)はしばしば大きな飾り付きのボス金具で覆いをされていた。

いくつかの形状については、今日用いられているものよりもより極端でかつ地味でもあった。大勒銜は古代にも知られていたが、中世期には14世紀中頃になるまで、一般的に使われていなかった。

中世の時代に使用された水勒銜の形式は、現代のハーフチークやフルチークの様にチークを下方に伸ばした形状をしていた。

13世紀末まで、手綱は一組であるのが一般的であったが、この時代以降、騎士においては現代の大勒手綱(double bridlt/Weymouth Reins)に似た、二組の手綱を使用することがより一般的となり、そしてしばしば少なくとも一組については装飾が行われていた。

拍車は、この時代を通じて特に関係が深く常用する騎士階級によって一般的に使用される。騎士叙任を得た際には、若者は”拍車を勝ちとった”という言われ方をされた。

裕福な騎士や乗り手はしばしば装飾が施され、繊細な拍車を身に着けていた。

ストラップによって乗り手の踵に取り付けた拍車は、馬を素早く前方へ進めたり、直接横方向へ向くことを促すことができた。

初期の拍車は、比較的乗り手の踵に近い位置に円盤を取り付けた短い柄または”首”を持っていた。

拍車形状の更なる改良により、乗り手のより少ない脚の動きで馬に触れやすくするため、首が延ばされた。

(十五)へ続く
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