中世馬事情(十一) 農業

ローマ人は二圃式農法を用いていたが、8世紀以降三圃式農法が主流となった。

一つ目の農地に冬作物の播種を行い、二つ目には春作物、三つ目は休ませる。

この農法により、馬の飼料として用いられるオート麦の春収穫量が飛躍的に増加した。

中世期におけるもう一つの進歩は、緻密で重い土壌を簡単に耕作出来るようにする重モールドボード・プラウ(犂)の開発であった。

プラウ耕

※ただし、現在では長期に渡るプラウ農法は、硬盤の形成や土壌下層の石灰化、深刻な土壌流失などを引き起こす欠点があると云われる。

この技術は、牛馬など役畜数や農場の大規模化を必要とした。

特に12世紀以降、首輪と鉄の蹄鉄の利用増加により、馬の力をより効率的に導くことが出来るようになった。

役畜一組は通常、牛の八頭に比べ、馬の場合は四頭または六頭で構成された。これは馬の場合、牛とは異なり牧草のほかに穀物を与えなければならないことから、より少ない頭数で埋め合わせたためだ。

馬の利用による速度の向上は、一日当たりの耕作可能面積を増やし、牛八頭立てが一日に平均半エーカーであるのに対し馬の場合は一日当たり平均1エーカーを耕作できた。

プラウニング(耕起)やハロウイング(砕土)のような農場作業のために用いられたアフラス(またはストット)と呼ばれる輓馬は、たいてい馬車引き用の馬よりも小型で安価であった。

農場の役畜としては伝統的に牛が用いられていたが、首輪が開発されて以降、馬が大々的に利用されるようになり始めた。 牛と馬はしばしば一緒に繋がれた。

農作業における牛から馬への移行は、絵画に記録され(例えば11世紀のバイユータペストリーには役馬が描かれている)、ローマ時代の二圃式農法から(主にオート麦、大麦、豆類などの)飼料用作物の作付増加をさせる新しい三圃式農法へと変化したことからも明らかである。

馬はまた、作物の処理においても使用された。(トウモロコシ製粉のような)製粉所で車輪を回転させるためや、作物を市場へ輸送するためにも馬が使用された。

馬は牛と異なって車輪付きプラウに適していたため、牽き馬への変化はプラウの変化を意味した。

(十二)へ続く
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