中世馬事情(十七) 女性と馬、軍馬の価格

女性と馬

娘が父の生業について学び、妻が夫と生業を共にすることは、珍しいことではなかった。

未亡人たちは亡夫の事業を継続することが出来たとみられており、多くの職業組合が彼女らの加入資格を認めていた。

この仕組みの下、馬に関係した職業の訓練を受けて鞍職人や装蹄師として働いた女性たちが存在したことが記録に残されている。

多くの人手を必要とする農場では、分業の徹底は不可能であり、女性も男性と同様に(自分の農場や、雇われ農夫として)農耕馬や牛を扱い、それらの世話をしながら働らいた。

旅行には困難が伴ったにも関わらず、女性を含む多くの人々にとって、長距離旅行は一般的な事であった。

上流階級の婦人たちはしばしば十字軍や馬上槍試合に赴く夫たちに同行し、多くの女性たちが社交上や親族内の会合のため旅をした。

修道女も世俗の女性もともに巡礼を行った。 徒歩でなければ、女性は通常騎乗で旅をするか、もし衰弱していたり虚弱だったりする場合は、馬車や駕篭で運ばれた。

もし許可された街道であれば、女性は荷馬車から開発された初期の三~四頭引きの馬車に乗ることもあった。 改良された緩衝装置の発明後、馬車での旅はより快適なものとなった。

貴族の女性もスポーツとして、狩猟や鷹狩の際男性と共に乗馬をたしなんだ。

中世女性の大部分は、跨る乗り方であった。一方、十三世紀までに取っ手や足場の付いた椅子状のサイドサドルが登場し、精緻なドレスを着用したままで貴族の女性が騎乗することができるようになったが、中世の期間には普遍的には受け入れられなかった。

これは主として、サイドサドルが安全とは言えず、別の乗り手によって導かれる滑らかな足取りの馬を必要としたためである。

サイドサドルは、鞍に足を掛けて手綱で馬を操作できるようにするポメル・ホーンが十六世紀に開発されるまでは、日々の騎乗のためには実用にならなかった。

その後も、十九世紀に第二の発明”リーピング・ホーン”が登場するまで、横乗りには不安定さが残されたままだった。

女性が軍馬を駆り、戦争に参加したことは明らかだ。ジャンヌ・ダルクは恐らく最も有名な中世期の女戦士であるが、他にも十二世紀に従兄弟のスティーブン・オブ・ブロワとその妻マチルダ・オブ・ボローニュに対する一軍を率いて武装し騎乗した女皇マチルダなど多くの例がある。

十五世紀の詩人クリスティーヌ・ド・ピザンは”必要とあらばその部下たちを指揮するため、武器と戦争に関するすべてについての法を知るべし”と貴族女性に提言した。

馬の価格

良質の軍馬(デストライア種)は非常に高価であった。

七世紀のサリカ法は、贖罪金または賠償金として、健康な牡馬一頭につき(ノミスマ)金貨3枚、牡牛一頭につき金貨1枚と定めていたのに対して、一頭の軍馬には金貨12枚を課していた。

後の世紀には、デストライア種は更に高価になった。

1297年のフランドル領における22の騎士・従者たちの馬の平均価値では普通のコルセア種の七倍の値が付いていた。

これらのデストライア種は、普通のコルセア種が5~12リーブル(パリジャンポンド)であるのに比して、20~300リーブルの値がついていた。

スポンサードリンク