オーモンド伯爵
Earl of Ormond

オーモンド伯爵および関連するオーモンド公爵・オーモンド侯爵の称号は長く複雑な歴史を有している。オーモンド伯爵位はアイルランド貴族として三度創設された。バトラー家はヘンリー二世の時代にセオバルド・ウォルターが執事長職(the Chief Butler of Ireland/England)を与えられて初代バトラー男爵を創設、以後この職は世襲され家名となった。バトラー家はアイルランドに強固な基盤を築いて当地の一大勢力として繁栄した。

オーモンド伯爵第一期創設 (1328~1514)

1328年ジェームズ・バトラーにより創設された。五代伯は1449年にイングランド貴族としてウィルトシャー伯爵を創設したが1461年に私権剥奪され同時に爵位の剥奪も宣告された(五代伯ジェームズは薔薇戦争期における忠実なランカスター派の一人であり、タウトンの戦いで敗れてヨーク派により斬首された)。

オーモンド伯爵位は弟のジョン・バトラー(六代伯)、さらにその弟トーマス・バトラー(七代伯)により継承されたものの七代伯に子が無く、爵位は停止状態となった。事実上、正当な伯爵位後継者たるピアーズ・バトラーは1528年に自身の権利を放棄する様誘導された。これはアン・ブーリンの父トーマス・ブーリン(七代伯の娘の子)によるオーモンド伯爵位・ウィルトシャー伯爵位の継承を後押しするためであった。当時アン(・ブーリン)はヘンリー八世の愛人であった。七代伯の孫である(でしかない)トーマス・ブーリンの継承権順位は低かった。娘アンを介してトーマスはエリザベス一世女王の祖父にあたる。

オーモンド伯爵第二期創設 (1529~1539)

1329年にトーマス・ブーリンによりウィルトシャー伯爵・オーモンド伯爵位が創設された。トーマス・ブーリン死去時、子息ジョージは既に反逆罪で処刑されていたため後継者が無く爵位は断絶した。

オーモンド伯爵第三期創設(第一期創設の再興 1539~)

その寛容と愛国心への報償として第一期七代伯の従弟ピアーズ・バトラーは、ウィルトシャー伯爵位・オーモンド伯爵位の権利放棄の五日後にオソリー伯爵位を創設した。

1538年ピアーズはオーモンド伯爵位(八代伯)を再興(トーマス・ブーリンは失脚して宮廷から追放されていた)。十二代伯ジェームズのとき、1661年にアイルランド貴族としてのオーモンド公爵位とオーモンド侯爵位、1682年にイングランド貴族としてのオーモンド公爵位を創設。

オーモンド公爵 (アイルランド1661~1758)(イングランド1682~1715)

初代公爵となったジェームズは友人の初代スタフォード伯爵トーマス・ウェントワースの引立てでアイルランド騎兵隊の司令官に指名された。

1641~1647年アイルランド・カトリック同盟との戦争を指導。1649~1650年には王党派軍を率いてクロムウェルのアイルランド征服軍と戦った。

1650年代にはチャールズ二世を従ってヨーロッパに亡命、166年に王政復古でチャールズ二世が王権を回復するとイングランド・アイルランド政界の大物となった。子息のオソリー伯トーマスが早世していたため二代公爵はその子(初代の孫)ジェームズが継承したがトーリー党とホイッグ党の政争に絡み官職を剥奪、1715年のジャコバイト蜂起で反乱者たちがオーモンドの復権を要求していたため大逆罪に問われて私権剥奪となった。

イングランド貴族の爵位は剥奪されたが、後にグレート・ブリテンの議会によって制定された私権剥奪はグレート・ブリテン(イングランドとスコットランド)の爵位に対してのみ適用され、アイルランドの爵位については適用されない、と判断されたため、二代公爵の弟初代アラン伯チャールズ・バトラーが第三代のオーモンド公爵(アイルランド公爵位)を継承した。

三代公爵には継承者がなく、1758年公爵の死により公爵位は断絶しオーモンド伯爵位を含む一部の爵位はジョン・バトラーが継承。

オーモンド侯爵第一期創設 (1816~1820断絶)

十八代伯ウォルター・バトラーにより創設されたが継承者なく断絶。オーモンド伯爵位は弟のジェームズが継承。

オーモンド侯爵第二期創設 (1825~1997断絶)

十九代伯ジェームズ・バトラーにより創設。七代侯爵ジェームズ・ヒューバート・セオバルド・チャールズ・バトラーに子がなく1997年に侯爵位は断絶。オーモンド伯爵位は現在保留状態となっている。

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