サマーセット公爵
Duke of Somerset

現存する非王族公爵家ではノーフォーク公爵についで古い序列第二位の公爵位。
現公爵は十九代ジョン・マイケル・エドワード・シーモア、従属称号としてシーモア男爵を有する。

第一期創設(1443/8/28~1444/5/27)

1443年三代サマーセット伯ジョン・ボーフォート(ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの曾孫)が創設したが1444年継嗣なく死去(おそらく自殺)により断絶。

第二期創設(1448/3/31~1464/4/3剥奪)

1448年第一期公爵ジョン・ボーフォートの弟モータン伯エドマンド・ボーフォートにより(新たな勅許状で)創設。
しかし大抵は二代サマーセット公爵と呼ばれる。

薔薇戦争時、エドマンドはランカスター派として1455年第一次セント-オールバンズの戦いで戦死し、爵位は子のヘンリー・ボーフォートが継承したが1461年タウトンの戦いで敗戦・スコットランド亡命。

エドワード四世により反逆罪による私権剥奪を宣告されたが1463年イングランドへ帰還して国王と和解して爵位所領を回復する。
ほどなくヘンリーはランカスター派に寝返り、1464年ヘクサムの戦いで捕虜となって断頭された。

ヘンリーの非嫡出子チャールズ・サマーセットは初代ウースター伯となったが、ヘンリーの爵位は議会立法により剥奪された。
しかしランカスター派ではヘンリーの弟エドマンド・ボーフォートがサマーセット公爵と呼ばれた。1471年のテュクスベリーの戦い後、エドマンドは逃走しテュクスベリー修道院に避難した。
が、ヨーク派に断頭され修道院教会に埋葬された。この死によりボーフォート家系の嫡流は断絶した。

第三期創設(1499/2/24~1500/6/19)

1499年ヘンリー七世は生まれたばかりの子息エドマンドを洗礼の際にサマーセット公爵として指名したが、この子供は一歳の時点で死亡しており、公式には叙爵されていないとみられる。

※1525/6/18~1536/7/22の間 ヘンリー八世の非嫡出子によりリッチモンド・サマーセット公爵位が創設される。

第四期創設(1547/2/16~現存)

1547年ヘンリー八世の第三王妃ジェーン・シーモアの兄弟であるエドワード・シーモアが枢密院の同意を得てサマーセット公爵を創設した。
1552年エドワードは護国卿の地位を失って二年と経たぬうちに爵位を剥奪され斬首された。
理想主義と傲慢に満ちたシーモアとは対照的に現実的なノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーによりエドワード・シーモアはエドワード六世の政権内で少数派に追いやられていた。

1644年国王チャールズ一世は第一・二期三代公爵ヘンリーの子孫(公の非嫡出子チャールズ・サマーセットの子孫)であるエドワード・サマーセットに対してグラモーガン伯位を与え、またアイルランドからの軍事的支援を得る見返りとしてサマーセット公爵位を約束した。
共和政下、エドワードは財産没収・国外追放されていたが王政復古により財産を回復した。
チャールズ1世との約定によるサマーセット公爵位(およびその他のグラモーガン伯爵位など)を要求したが、この要求は授爵状の不正を理由に貴族院により拒否された。
このため、チャールズ二世は1547年の護国卿・実質的摂政である第四期公爵の子孫シーモア家に公爵位を与えることが可能となった。

初代公爵の第三子の孫となるウィリアム・シーモアが王党派としての尽した忠誠により、1660年王政復古時にチャールズ二世によりサマーセット公爵位を再興された。
以後、何度か極めて遠い分流への継承を繰り返しながらも現在まで爵位を継承している。

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