ノーフォーク公爵
Duke of Norfolk

英国の現存する非王族公爵位で創設が最も古い公爵位。
現公爵は十八代エドワード・フィッツアラン-ハワード。従属称号としてアランデル伯爵、サリー伯爵、ノーフォーク伯爵、ボーモント男爵、マルトラヴァース男爵、フィッツアラン男爵、クラン男爵、オズワルデスタ男爵、グロソップのハワード男爵を有する(1470年創設のハワード男爵について剥奪されて1490年の私権回復対象になっていないのか、1777年の九代公爵の死去時に保留状態abeyanceになったのか不明である)

現在のサフォーク伯爵、カーライル伯爵、ペンリスのハワード男爵はノーフォーク公爵家の分流であるが、これら男系継承がすべて断絶した場合にはボーモント男爵を除いた爵位が消滅し、ボーモント男爵は保留状態となる。

上記以外の分流として二代公爵の時に分かれたエフィンガム伯爵家があるが、1660年の再興時には継承者から除外(この時継承条件に含まれたのは四代公爵の子孫)されておりノーフォーク公爵位の継承権はない。

ノルマン征服時、征服王とともにノルマンディーからやって来たロジャー・バイゴットから始まるノーフォーク伯バイゴット家は女系継承でアール・マーシャルの地位を世襲していたが、五代目伯のときに男系継承が途切れ、女系継承によりハワード家が継承して世襲している。

第一期創設(1397/9/29~1476/1/17)

1397年訴追派貴族に属していたノッティンガム伯トーマスだが、後になぜかリチャード二世に採りたてられ祖母マーガレット(ノーフォーク伯トーマス・ブラザートンの娘、エドワード一世の孫娘)とともに公爵位を与えられた。
ただしマーガレットについてはは一代限りとして公爵夫人。ヘンリー四世が権力を掌握すると反逆罪に問われて追放先で1399年病死した。

トーマスの長子トーマス・モウブレーはノーフォーク公爵以外の爵位(ノーフォーク伯等)の相続を許されたがこれを不満として1405年に反乱、敗れて処刑された。
弟のジョン・モウブレーが伯位を承継、ネヴィル家と縁を結びヘンリー五世の下英仏戦争に従軍して功績を積み1425年に公爵位を再興した。1476年第四代公爵ジョン・モウブレーが継嗣なく死去し断絶した。

第二期創設(1477/6/12~1400/3/24)

1476年第四代公爵ジョン・モウブレーが死去した際に男子はなかったが娘アンがあり、アンは国王エドワード四世の第二子ヨーク公リチャードと婚姻、1477年にリチャードはノーフォーク公爵に叙爵された。
しかし、1483年エドワード四世の死去後、エドワード五世兄弟の私生児問題が発生してリチャード三世が即位、リチャードの爵位は剥奪された。

第三期創設(1483/6/28~現存)

リチャード三世の即位にあたり功績があったとして第一期の初代公爵トーマス・モウブレーの孫(トーマスの娘マーガレットの子)にあたるジョン・ハワードが1483年にノーフォーク公爵位を創設した。
(が、以後度々爵位の剥奪と再興を繰り返す・・・)

初代公爵ジョン・ハワードはボズワースの戦いでリチャード三世とともに敗死し、子の第二代トーマス・ハワードも公爵位を剥奪されたが、のちにスコットランド軍の撃退の戦功で1514年に公爵位を再興した。

第三代トーマス・ハワードは当初ヘンリー八世の寵愛を受けたが(姪が二人、ヘンリー八世の王妃となった)のちに失脚して投獄され1547年に公爵位を再び剥奪される。処刑前にヘンリー八世が死去したため辛くも生き延び、1553年にはメアリー一世の即位に功績ありとして公爵位を再興した。

1572年第四代公爵トーマス・ハワードの代にアランデル伯フィッツアラン家の女相続人と結婚しアランデル伯を継承した。

1569年の北部諸侯の反乱の首謀者らがトーマスとスコットランド女王メアリーとの婚約を画策したため、関与を疑われて女王エリザベス一世により大逆罪で処刑され公爵位は三度剥奪された。(この時点で一時的にイングランドには公爵がいなくなる)

1660年王政復古の際に第四代公爵の玄孫にあたるアランデル伯トーマスがチャールズ二世により叙爵され再興。以後現代に続く。

1842年第十四代公爵ヘンリー・ハワードはヴィクトリア女王の勅許を得て姓をフィッツアラン-ハワードへ改めた。

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