キングストン・アポン・ハル公爵
Duke Of Kingsone-Upon-Hull

キングストン・アポン・ハル公爵はグレートブリテン貴族の称号であり、イングランド貴族の称号であるキングストン・アポン・ハル伯爵位と関係していた。 伯爵位は1628/7/25、初代ニューアーク子爵ロバート・ピアポントにより創設された。

公爵位は1715/8/10に彼の曾孫であり、1690年に五代キングストン・アポン・ハル伯爵となった初代ドーチェスター侯爵エヴリン・ピアポントにより創設された。 この公爵位は二代公爵の死により1773に断絶した。

これらの称号はしばしば非公式に短縮されキングストン公爵(または伯爵)されるが、全く別物のアイルランド貴族の称号であるキングストン伯爵位とは混同しないようにすべきである。

十三世紀以降、ピアポント家の居城はノッティンガムシャーのホルム・ピアポント・ホールであった。 居城については十六世紀中に同じノッティンガムシャーのソアーズビー・ホールへと移っている。 この一族は、十五世紀から十六世紀にかけてノッティンガムシャー統監やダービーシャー統監を務める人物を数名輩出した。

キングストン・アポン・ハル公爵および伯爵の直接の祖先は、ノッティンガムシャー選出議員だったヘンリー・ピアポント卿である。彼は廷臣ウィリアム・キャヴンディッシュ卿(デヴォンシャー公爵・ニューカッスル公爵であったジョン・キャヴンディッシュの曾孫)とベス・オブ・ハードウィック夫妻の長女フランシス・キャヴンディッシュと結婚した。

ヘンリー・ピアポント卿の子息ロバート・ピアポント卿は、1627/6/29にイングランド貴族としてニューアーク子爵位およびピアポント男爵位を創設した。 1628年、彼は更に一般継承条件(heirs general 直系長系優先だが不在の場合には受爵者の兄弟姉妹の子孫を対象者とする継承条件であり、性の指定がないため女性でも継承可能となる)付きでイングランド貴族であるキングストン・アポン・ハル伯爵位を創設した。

ロバート・ピアポントは1601年にゲートルード・タルボットと結婚した。ゲートルードは六代シュールズベリー伯爵ジョージ・タルボットの孫娘であり、彼ら夫妻の子孫は祖父を通してエドワード三世王の末子グロスター公爵トーマス・ウッドストックを通じた王家の血統を主張できることとなった。

初代伯爵の子ヘンリー・ピアポントが二代伯爵となり、彼は1645年にドーチェスター侯爵位を創設した。ヘンリーは継承者を残さずに1660年に死去し、侯爵位は断絶する。 伯爵位ほかは甥のロバート卿(二代伯爵の弟ウィリアム・ピアポント卿の長子)が三代伯爵として継承した。

ロバート伯は未婚のまま死去し、弟のウィリアムが四代伯爵となった。

ウィリアム伯の跡はさらにその弟、前述のエヴリンが継承して五代伯爵となった。 エヴリン伯は1706年に伯父のイングランド貴族ドーチェスター侯爵位を再興し、のち1715年にグレートブリテン貴族としてキングストン・アポン・ハル公爵位を創設したが、これらの爵位は初代公爵エヴリンの孫の二代公爵エヴリンが1773年に死去したことで断絶した。

二代公爵夫人の死にあたり、キングストン・アポン・ハル公爵の不動産はチャールズ・メドウズに譲られた。彼は初代公爵の女系子孫の曾孫である。チャールズは姓をピアポントへ変更し、1796年にホルム・ピアポントのピアポント男爵位を、そしてのち1806年にマンバーズ伯爵位を創設した。 これらの爵位は六代マンバーズ伯爵が1955年に死去したことで断絶した。

この一族の出身者からは別方面での栄達を果たした者たちもいる。初代伯の次子ウィリアム・ピアポント卿(三代伯の父)は政治家となった。彼の三男ジェルヴァース・ピアポントは1701年にアードグラスのピアポント男爵位を創設した。マリー・ウォートリー・モンタギュー夫人として有名な初代公爵の娘マリー・ピアポントは文学者となった。二代公爵の妻キングストン・アポン・ハル公爵夫人エリザベス・ピアポントは廷臣となった。


ピアポント/メドウズ家系図
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